「他人を幸せにしたい」その傲慢さたるや

エッセイ

※この記事は以前noteのマガジン「丸裸のアイ」にあげた記事を一部修正・加筆したうえで転載しています。

 

なぜこの仕事を選んだのですか?

なぜこの活動をしているのですか?

世の中の「ちょっとがんばってる人」にこんな質問を投げかけると、「人を幸せにしたいんです」と答える聖人がいます。

 

爽やかな笑顔、揺るぎない地位、気持ち良いほどの名声を得る人もいれば、人知れずひっそりと活動し、他人を幸せにすることを自分の使命かのごとく成し遂げようとする人も。

だけど、本当に他人を幸せにできるのでしょうか?本気の本気で、他人に幸せを運びたいと思っているのでしょうか?

 

耳障りの良い言葉

人は綺麗事を信じる生き物です。世の中には綺麗なものも汚いものも溢れているから、どうせなら綺麗なものを見て、自分の心を満たしたいのです。

 

「怖いもの見たさ」で見たくもない汚いもの(児童虐待のニュースとか)を見るのは、心のどこかで自分の感性が正しいのだと、自分の心にも人並みの優しさや美しさがあるのだと実感したいから。

 

そんな生き物が「人を幸せにしたい」と発言する人を讃える気持ちはよくわかります。マザー・テレサやガンディーも他人を幸せにしたいと活動を行なっていたからこそ、現代でも讃えられているかもしれません。(いや、よく知りませんが)

 

そこで私は「自分が今プロポーズされたら」と想像してみました。愛する人に「きみを幸せにしたいから、結婚しよう」とプロポーズされるシーン。

恋愛ドラマなら涙ながらに観るシーンかもしれません。でも、私はどうしても違和感を感じるのです。

 

「で、あなたは幸せなの?」

「私が専業主婦になって、あなたが働いたお金を好き勝手に使い込んで、挙げ句の果てにあなたの名前で借金して、最後には男作っておいてお金は欲しいから離婚しないとか言ったら、それでもあなたは私を幸せにしたいと思うの?私の言いなりになるの?」

 

…いや、絶対無理でしょう。普通の感覚の人なら、こんな女を嫁にしたいなんて思わないって。

極端な例かもしれませんが、「他人を幸せにしたい」という言葉は、しょせん自分が信じたいだけの耳障りの良い言葉でしかありません。

 

幸せは自分で感じるものだから

あくまで私個人の意見ですが、あんなプロポーズをされたら

「私を幸せにしたいとかおこがましい。そんなの傲慢だから出直してこい」

って答えるかもしれません。実際に夫からのプロポーズでは「これからも一緒にいたい」って言われたのですが、その中には「夫は私と一緒にいると幸せ」という意味が込められています。だから、夫みたいに下心丸出しの方が好感が持てます。

 

他人を幸せにできるという保証はありません。無責任に耳障りが良いだけの言葉を言われて陶酔してる人は、ちょっと冷たい風にでも当たってきてください。

「自分なら他人を幸せにできる自信がある」それが傲慢だと気付いてほしいです。誰かに何かを与えるということは素晴らしいことですが、それが幸せに繋がるわけではありません。

 

幸せは誰かから与えられるものじゃない。「これをしたら幸せ」「これを持っていたら幸せ」って、何かを成し遂げた瞬間に幸せになるわけでもない。

 

幸せは実感するものです。気付いて、自分自身の心で感じて、噛み締めるもの。だから幸せな瞬間もあれば、幸せじゃない瞬間もある。ゴールなんてどこにもないから、死ぬまで幸せを追い求めて彷徨い続けるんです。

 

ラッキーな人なら、持続的に幸せな時間を感じられます。アンラッキーな人は、もしかしたら十分に幸せを感じられず悲しみのまま死んでしまうこともあるでしょう。

でもそれは自分次第。人から与えられるのを待たず、自分で感じていきたいです。